広島は世界遺産が2つ、しかも性格が正反対という珍しい街です。片方は「二度と繰り返さない」ための負の遺産、もう片方は860年前から海に浮かぶ社殿。この2つを軸に、スポット・歴史・数字・豆知識をまとめました。地図は3枚に分けてあります。
この一帯は公園になる前、西国街道が通る広島屈指の繁華街「中島地区」でした。映画館、呉服店、理髪館、一銭洋食の店が並び、約4,400人が暮らしていたとされます。爆心地から約100〜700mで全滅しました。
2022年に開館した被爆遺構展示館(無料)では、発掘された当時の住居跡とアスファルト道路跡を露出展示しています。「公園の下に街が埋まっている」ことが実感できる場所です。
元は広島県産業奨励館(1915年竣工)。物産の展示即売や美術展をやっていた文化施設で、設計はチェコの建築家ヤン・レツル。爆心地から約160m。
保存が決まった経緯も知っておくと見え方が変わります。戦後は「不快な記憶を留めたくない」「市の美観を損なう」という取り壊し論が強かった。転機は、1歳で被爆し16歳で白血病により亡くなった楮山ヒロ子が1959年8月6日の日記に残した一文でした ──「あの、いたいたしい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆を(後世に)うったえてくれるだろうか」。これに動かされた広島折鶴の会が募金・署名運動を始め、1966年7月11日に市議会が永久保存を決議します。
保存工事はこれまで5回(1967/1989-90/2002-03/2015-16/2020-21)。第1回は全額が募金でした。2025年9月18日には特別史跡に指定され、明治以降の遺跡としては全国初です。
1945年8月6日、原爆「リトルボーイ」は島病院の上空約600mで炸裂しました。現在は島内科医院が建ち、説明板があるだけです。観光地化されていないぶん、かえって効きます。
T字型の橋。上空から極めて目立ち主要軍事施設に近かったため、ここが米軍の照準点でした。実際の炸裂点は南東に約300mずれています。
2016年開業、原爆ドームの真隣に建つ高さ51.5mの展望施設(旧ビルの改修、設計・三分一博志)。屋上「ひろしまの丘」からドーム・平和記念公園・瀬戸内海・宮島まで一望できます。12階には自分で折った鶴を投げ入れる「おりづるの壁」。大人2,200円。ドームを上から見られる唯一の場所です。
1958年5月5日建立、高さ約9m。佐々木禎子は2歳のとき爆心地から約1.6kmで被爆し、1955年に白血病で亡くなりました(12歳)。同級生の発案で募金運動が始まり、全国3,000校を超える学校から手紙と募金が寄せられて建立されました。像には年間約1,000万羽(重さ約10トン)の折り鶴が捧げられます。
1964年8月1日点火、設計は丹下健三。形は「手首を合わせ、手のひらを大空にひろげた形」。核兵器がなくなる日まで燃やし続けるという誓いが込められ、60年以上消えていません。
1952年建立、設計は丹下健三。屋根は埴輪の家型で、「犠牲者の霊を雨露から守りたい」という思いから。原爆死没者名簿は2026年8月6日時点で132冊・353,639人、2026年は4,393人が新たに奉納されました。
設計は丹下健三、1955年開館。本館は2006年に国の重要文化財に指定されています(戦後建築としては異例の早さ)。入館料は大人200円、中学生以下は無料。2025年度の来館者は約258万人で過去最多(3年連続更新)、うち約3分の1が外国人。
2019年のリニューアルで展示が大きく変わりました。本館は「被爆の実相」に特化し、東館→本館の順路に整理。基本方針は「人間の被害により重点を置く」で、かつての被爆再現人形(3体のジオラマ)は撤去され、遺品・遺影など実物資料中心になりました。資料館は撤去理由を「実際は顔も性別がわからないほど焼けただれた人もいた」「人形では被害はこんなものじゃなかったという被爆者の批判もあった」と説明しています。
かつての西国街道そのもの。東西577mに約200店が並ぶ中四国最大の商店街で、休日の人通りは約10万人。1954年に初代アーケードが完成しました。
広島のお好み焼きは戦前の「一銭洋食」が原型。戦後に空腹をしのぐ食べ物として形を変え、昭和30年代に麺(そば)と豚肉が加わって今の形になりました。関西のように混ぜず、重ねて蒸し焼きにするのが決定的な違いです。
お好み村は、戦後に新天地広場へ50軒の屋台が集まったのが始まり。作家・きだみのるが「まるでお好み村みたいだね」と言ったのが名前の由来です。1963年にプレハブ店舗になり、1992年から現在の「新天地プラザ」(2〜4階が飲食フロア)。
毛利輝元が1589年に鍬入れ。大天守は5重・高さ約32.7mで、1931年に国宝でした。1945年8月6日、熱線には耐えたものの、爆風の衝撃波で下部2層が上部の重さに耐えきれず倒壊し、間もなく上部3層も崩落。吹き飛ばされたのではなく自重による自壊とされます。現在の天守は1958年の鉄筋コンクリート外観復元。
1620年、初代藩主・浅野長晟の別邸庭園として、家老で武将茶人の上田宗箇が作庭した池泉回遊式の大名庭園。名は林羅山の詩「海山をその地に縮め風景をこの楼に聚む」から。1940年に国の名勝。
爆心地から約1.4kmで原爆によりほぼ全壊し、1951年に再開園、完全な復旧までは約30年かかりました。入園350円。
広電は軌道線19.0km+宮島線16.1kmで、輸送人員と路線延長が路面電車として日本一。全線均一運賃 大人240円(2025年2月改定)。京都・大阪・神戸などから移籍した旧型車と最新LRVが混在し「動く電車の博物館」と呼ばれます。
2025年8月3日に駅前大橋ルートが開業し、路面電車がJR広島駅の新駅ビル「minamoa」2階に直接乗り入れるようになりました。2026年3月28日には23年ぶりの新系統「循環線」も開業しています。
2009年開場、収容33,000人。国内では珍しい左右非対称のフィールド(左翼101m・右翼100m、中堅122m)で、MLBに倣ってライト側の席を多くしています。寝そべって観るバスタベリア、砂かぶり席、ブルペンレストラン、のぞきチューブなど座席バリエーションは日本一。
2024年2月開業、約28,520席で中四国最大のサッカースタジアム。原爆ドームから徒歩8分の「まちなかスタジアム」です。平和記念公園・広島城・スタジアムが徒歩圏で一直線に並ぶのは全国的にも異例。
島そのものが神域という考え方が、この島のすべてを決めています。かつては島で出産も埋葬も許されず、産気づけば対岸へ渡って産後100日経ってから帰り、死者が出れば対岸の赤崎へ運んで葬りました。鉄の農具を土に立てることも忌まれ、耕作は禁止(「絶えて五穀を作らず」)。食料は対岸からの行商に頼っていました(『棚守房顕覚書』1580年)。
島に墓地がないのも、この延長にあります。厳島神社が海の上に建っているのも、同じ発想の帰結とよく説明されます。
社伝では593年(推古天皇元年)、佐伯鞍職の創建。現在と同規模の社殿を造営したのは1168年頃の平清盛です。様式は寝殿造・檜皮葺。
現在のものは明治8年(1875年)建立で、清盛の造営から数えて8代目とされます(近年9代目説あり)。高さ約16.6m、笠木の長さ約24.2m、重さ約60t、主柱の根元周囲は約10m。主柱2本はクスノキの自然木で、東柱は宮崎県産、西柱は香川県観音寺市産 ── 宮島産ではありません。それほどの巨木が国内で見つからなかったためです。
2019年6月〜2022年12月に約70年ぶりの「令和の大修理」が行われました。檜皮の葺き替え、袖貫の取替、鉛含有の旧塗料をブラスト除去しての全体塗装など。主柱の内部に直径40〜50cm・深さ約4mの空洞とシロアリ被害が見つかっています。
1587年、豊臣秀吉が安国寺恵瓊に建てさせた大経堂。ところが秀吉が1598年に急死して工事が止まり、未完成のまま現在に至ります。天井が張られておらず板壁もない吹き抜けで、それが今では真夏でも風が通る名所になっています。広さは畳857枚分(約40m×約21m)── 「千畳」には届いていません。拝観100円。
隣の五重塔は1407年建立、高さ27.6m。和様と唐様を調和させた様式です。
標高535m、宮島の最高峰。原始林は世界遺産の登録範囲に含まれ、国の天然記念物でもあります。暖地性植物と北方系針葉樹が混在する、学術的にも珍しい森。
ロープウエーで紅葉谷駅→榧谷駅→獅子岩駅(計約14分)、そこから弥山本堂まで徒歩約20分、山頂までさらに約10分です。
806年、空海の開創で宮島最古の寺院。真言宗御室派大本山で、明治の神仏分離までは厳島神社の別当寺として祭祀を統括していました。弥山七不思議を伝えるのもここです。
あなご飯は明治34年(1901年)創業「あなごめし うえの」が発祥。宮島口駅前の茶店で、初代・上野他人吉があなごの骨でだしを取った飯にあなごを乗せた駅弁として売り出したのが始まりです。
もみじ饅頭の発祥は高津常助(当時20歳)が明治39年(1906年)に焼いた「紅葉形焼饅頭」。紅葉谷の旅館「岩惣」の女将からの依頼がきっかけでした。
牡蠣は広島県が全国生産量1位で、むき身ベースで全国の62.9%(2023年)。旬は冬です。
表参道商店街にあった大しゃもじ(長さ7.7m・重さ2.5t、ケヤキ製)は、2021年に「etto宮島交流館」へ移設されました。宮島杓子は江戸後期に僧・誓真が考案したものです。
宮島の鹿は野生動物です(広島県が明記)。奈良のような保護動物とは位置づけが違い、餌やりは禁止。人為的な餌付けで市街地に定着して密度が上がり、生活環境被害・観光客への危害に加えて、鹿自身が紙やビニールを誤食して栄養障害を起こす健康被害が出たためです。市街地周辺の推定は約600頭。
宮島水族館「みやじマリン」は1959年開館・2011年リニューアル。380種15,000点以上を展示し、スナメリと「カキいかだ」の水槽が名物です。一般1,420円。
| 見たいもの | 潮位の目安 | できること |
|---|---|---|
| 大鳥居の根元まで歩く | 100cm以下 | 御笠浜または西松原の階段から砂浜へ降りて、鳥居の真下まで行けます |
| 社殿が海に浮かぶ | 250cm以上 | 廻廊の下まで海水が来て、写真で見るあの状態に |
| 潮干狩り | 40cm以下 | — |
1日のうちに両方見られる日があります。宮島観光協会が年間の潮見表を公開しているので、「100cm以下の時間帯」と「250cm以上の時間帯」が両方ある日を選ぶのがいちばん贅沢です。逆に、これを見ずに行くと「思っていた景色じゃなかった」になります。
社伝では593年に佐伯鞍職が創建。現在と同規模の社殿を造営したのが1168年頃の清盛
「広島」という地名もこのとき生まれた
浅野長晟の別邸庭園として上田宗箇が作庭
日清戦争で大本営が広島城内へ移転。明治天皇は227日間広島で指揮を執り、帝国議会も広島で開会。軍都・広島の起源であり、のちに原爆の目標とされる遠因になった
午前8時15分、島病院の上空約600mで炸裂。広島城の天守は爆風で自壊、縮景園はほぼ全壊、広電は123両中108両が被災
廿日市変電所からの電力で己斐〜西天満町を運行再開
慰霊碑(1952)→ 平和記念資料館(1955)→ 原爆の子の像(1958)。資料館 → 慰霊碑 → 平和の灯 → 原爆ドームが一直線に並ぶ軸線は、1949年のコンペで1等になった丹下案の中核でした(応募145点)
16歳で亡くなった少女の日記 → 折鶴の会の署名運動 → 市議会決議
宗教の火(宮島・弥山の霊火を含む)と産業の火を、1945年8月6日生まれの7人の乙女が点火
原爆ドーム(登録基準(vi)のみの例外的適用。米国は決定から離脱する声明、中国も留保)と厳島神社が同じ年に登録された
約70年ぶり。主柱内部に空洞とシロアリ被害が見つかった
2025年8月 路面電車が広島駅ビル2階へ乗り入れ/2025年9月18日 原爆ドームが特別史跡に(明治以降の遺跡として全国初)/2026年3月22日 広島城天守が閉城/2026年 厳島神社 世界遺産登録30周年
| よく聞く話 | 判定 | 実際は |
|---|---|---|
| 大鳥居は地面に埋まっていない | ◯ 本当 | 約60tが自重だけで立つ。島木の中に玉石を詰めて重しに |
| 被爆電車が今も走っている | ◯ 本当 | 650形の651号・652号が現役で営業運転 |
| 宮島の弥山の火が平和の灯になった | ◯ 本当 | 1964年、宗教の火のひとつとして。国交省の解説文にも記載 |
| 千畳閣は未完成のまま | ◯ 本当 | 秀吉の急死で工事中断。天井も壁もない |
| 原爆ドームは横からの爆風で残った | ✕ 誤り | ほぼ真上からの垂直の爆風。だから厚い側壁が残った |
| 禎子さんは千羽鶴を折り切れずに亡くなった | ✕ 誤り | ひと月足らずで1,000羽を折り上げ、さらに折り続けた |
| もみじ饅頭は伊藤博文の一言が由来 | ✕ 俗説 | 公式記録になし。由来は紅葉谷 |
| 広島は地盤が軟弱で地下鉄が作れない | ✕ 俗説 | アストラムラインに地下区間1.9kmがあり、本通〜県庁前は法律上の「地下鉄」 |
| 「広島焼き」と呼ぶ | ✕ 非推奨 | 地元では単に「お好み焼き」。否定派が多数 |
| 大鳥居の木は宮島産 | ✕ 誤り | 東柱は宮崎県産、西柱は香川県観音寺市産のクスノキ |
| 宮島の鹿は保護動物で餌をあげてよい | ✕ 誤り | 野生動物。餌やり禁止。誤食で鹿が健康被害を受ける |
| 「8時15分」は確定した時刻 | △ 諸説 | 科学的確定値ではなく、定着した公式時刻 |
| 広島城の天守に登れる | ✕ 2026年3月で終了 | 耐震診断の結果、閉城。外観と二の丸は見学可 |